おぐさんだいあり

おぐさんが日々考えてることをつれづれなるままに書き散らしたものです。

3.11と幽霊

思い出した頃に更新するこのブログ。

もはやブログと呼べる更新頻度ではない。

 

せっかく開いたので、唐突ながら永遠の疑問である「幽霊の有無」についてつづろうと思う。

 

東日本大震災から今日で10年が経った。

地震が発生した時、当時高校生の僕は所属していた合唱部の副部長として数週間後に控えていた定期演奏会の打ち合わせのためホールに足を運んでいたのを思い出す。

 

四国に住んでいた僕にとって、それはテレビの奥の災害であった。それでも自然の恐ろしさは、むごたらしい津波映像を通して痛感した。その場に自分が居合わせることを想像して泣いてしまう日もあった。

 

当時、震災により命を落とした人の体を洗浄する仕事が話題となった。とある姉妹の遺体を洗った男性が、その夜、自身の寝床に姉妹の霊が現れ、洗ってくれたお礼に歌を披露してくれたらしい。男性はその話を生き残った姉妹の母親にすると、実際生前によく歌っていた曲目だったらしく、とても驚いたらしい。

 

このエピソードを聞いて心温まるような気もするが、少しゾッとするような気もするなんとも変な感じがした。幽霊の存在を、僕は真っ向から肯定しないが、否定もしない。判断の基準を科学とするなら存在するはずもないし、一方で科学的な理屈で説明のつかない現象が起こってるのも事実ある。

 

そういったアバウトな存在に対して、いるかいないかを問われた時、ずるいかもしれないが「いるかもしれないし、いないかもしれない」と返している。

 

神様においても、実際いるかどうかよく問われているような気がする。絶妙な奇跡に遭遇した時は、神様はいると信じ、不幸なことが起きたり続いているときは神様がいないと感じてしまう。要は、その人の気分、思い込みで神様の有無を安易に操作できる。いる時もあれば、いない時もあるのだ。サンタさんのように、成長過程でいつの間にかいないことを理解するのではなく、生涯をかけているのかいないのか存在について悩むものもある。またその存在は人の精神的な部分と大きく関係しているのだ。

 

急な震災で人間関係が絶たれると、心が大きく動揺するのが当然である。甚大なことが起こってしまったのだから、せめて幽霊くらいいても構わないのではないかと僕は思う。幽霊でもいいからもう一度大切な人に会いたいと願う人もいる。その人において幽霊は存在する。幽霊だって存在したいだろう。

 

何を書いたのかよくわかってないが、ここまでにする。f:id:molto0909:20210312000510j:image